固まった自我は、いわば氷山の一角に過ぎず、その底には無限の可能性が秘められている!

<第2259回> 2013年12月11日 発行

 ・日常の裏側にあるもう一つの世界

 心の底には、大きな場があり、それを「聖なる心」というのか、「生命の潮流」というのか、明らかに次元の違う領域があります。

 脳科学的には、下層脳(無意識脳)が、主体となった状態の時に現れる場だと考えることができます。

 これからは、何をするにも深い層にある直感的な力が必要になると思いますが、このレベルに少しでも近づくことが先決になります。

 一切の思考、論理、分別などを超越して、深い層と自己が一体化し、さらにその世界も消滅して、絶対的無の状況に到達する!

  固まった自我は、いわば氷山の一角に過ぎず、その底には無限の可能性が秘められている!

 私たちが「自分の力」と思っているものも、実は「氷山の一角」の目に見える部分に過ぎず、もっと大きな力が、目に見えない深い所に隠れているのです。

 目に見える部分が「身体」で、水中の見えない部分が「心」です。

 心と身体を一つに統一した時、氷山全体の力が発揮され、我々の生命力も最高に活動し、自己の持っている総合力が発動するのです。

 「通常の経験を超える深みに目覚める」精神的鍛錬は、大きな心の場を経験するひとつの方法でありますが、それには、禅の教えがもっとも優れていると思います。

 禅の教えでは「趙州無字」や「白隠隻手音声」の公案を用いて、意識に現れた雑念妄想などの一切を否定して、絶対的無の状況に到達できるのです。

  禅語では、公案を解くことを、透るといいます。

 そして「言う」は「道う」と綴ります。

 もっとも有名な「趙州無字」の考案を紹介します。

 趙州にある僧が尋ねました、「犬にも仏性があるでしょうか?」と。趙州は「無」と答えました。

 趙州(じょうしゅう)和尚に、「先生、犬にも仏性(ぶっしょう)がありますか?」と聞いたので、趙州が「無」と言い放ったという、たったこれだけの公案です。

【無門禅師の解説】

 参禅は必ず禅の祖師によって設けられた関門を透過せねばならない。絶妙の悟りに至るには心の意識を完全に滅してしまわねばならない。関門を透ったこともなく心の意識を滅したこともなければ、その人たちはいわば薮や草むらによりかかかり住みつく幽霊のようなものである。

さあ言ってみよ。この祖師の関門とはどんなものか。ただこの「無」の一字、これが禅宗の第一の関門であり、これを「禅宗無門関」と称する。

 この関門を透った人は、親しく趙州と会うことができるのみか、歴代の祖師たちと、手に手をとって歩き、互いの眉毛が引っ付く程に親しくなって祖師たちの見たその眼ですべてを見、同じ耳で聞くことができる。

本当にすばらしいことではないか。なんとしてもこの関門を透過しようではないか。

それには、三百六十の骨節、八万四千の毛孔といわれる全身全霊をあげて、疑問のかたまりとなり、「無」の字に集中し、日夜工夫しなさい。

しかし「無」を単に「虚無」と理解してはいけないし、また「有る」とか「無い」とかの理屈・分別の「無」と解してもいけない。

この無は、まるで熱い鉄丸を呑みこんでしまったように、吐きたくても吐くこともできず、今までとらわれていた知識や意識をすっかり洗い落し、時機が熱すると、自然に意識と対象との隔たりがとれ完全に合一の状態に入る。

それは聾唖者が夢にみたことを人に語れぬように、自分自身では知覚していても言葉では説明のしようの無い状態に似ている。

突如そのような別体験が訪れると、驚天動地の働きで、関羽将軍からその大刀を奪いとって自分の手にいれたようなもので、仏に出会えば仏を殺して仏の呪縛を破り、達磨に出会えば達磨を殺して祖師の呪縛を破り、現世に在りながら、無生死の大自在を手に入れ、六道や四生の世界に在りながら、自分という意識を離れた遊戯三昧(ゆげざんまい)の境地にいたる。

では、どのように工夫したらよいのか。

平生の精神力をつくしてただ「無」の一字に集中せよ。もし間断なく休止することがなければ、ロウソクに火がつくように、心中に悟りの光が一時に灯るといった境地になる。

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 禅では「差別」(しゃべつ)を打倒することが問われます。

 差別は自我をもつことで自他を区別すること。けれどもどうすれば自他を一如にできるのか。

 そこで「趙州無字」で最初につまずけと言ったのです。

 たった一文字の「無字」に参りなさい。これを一日中、ひっさげろ。その前で唸りなさい。

 無門禅師は、こうも言っている。この「無字」を「虚無の無」とか「有無の無」などと決してみなしてはいけない。

 この「無字」は灼熱の鉄の玉のようなもので、これをいったん呑みこんだら、呑みこもうにも呑みこめず、吐き出そうにも吐き出せない。そういうものなのだ、と。

 だが、そのうちに悪い知識がみんなとろとろととろけ出す。そうすれば、「無」も爆発してくれるだろう、と。

  山岡鉄舟が「趙州無字」をぶつけられ、十数年にわたってそのようにムームーと呻(うめ)いたそうです。

 私たちは時に日常の常識から抜け出して、自分の原体験が沈殿している意識の深層や、数億年の記憶を宿している何世代も以前から継承されている集団の記憶の貯蔵庫である意識の古層とも出会い、そこから新しいエネルギーを汲み取って日常に戻る必要があるのです。

 エゴや欲がくっつけば、ものの表面しか見えない。無欲になって、はじめて真実の世界が見えてくるのです。


 ありがとうございました。


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