禅の目的は、この「迷い」の元を断つことにあるのです。

 禅の公案に「隻手の声」というのがあります。

 隻手の声(せきしゅのこえ)=隻手音声(せきしゅおんじょう)は、白隠禅師が創案した禅の代表的な公案のひとつになります。

 公案とは、禅宗において修行者が悟りを開くための課題として与えられる問題のことで、一般には「禅問答」として知られています。

 この隻手の声は、両手で鳴らす音は聞こえるが、片手で鳴らす音を聞く!という禅問答です。

 片手では、拍手もできないし、ましてや音なんて出るはずもないだろう!と、一般の人は、反発してしまいます。

 常識や思慮分別などは、善悪や道理をわきまえるのに人が持つべき最も大切な理性です。

 分別は、人が人として生きていく上での絶対不可欠のものであり、この分別があってこそ人間社会は成り立っているのです。

  しかし、禅はそんな最も大切とされる「分別意識」に問題があると考えるのです。

 人は常識があればあるほど、この「観念」に捕らわれがんじがらめに縛られて、振り回されてしまうのです。

 そこに「こだわり」の意識が生じ悩んだり苦しんだりするのです。

 これを「迷い」と言います。

 禅の目的は、この「迷い」の元を断つことにあるのです。

 心を静かにして、言葉や思考が浮かばないように自分の思考を客観視して、観察を続けていると、やがて無音の状態に気づきます。

浮かんでくる思考や雑念を観察していると、思考が止まり静寂になる時がくるのです。

 なんとも言えない至福の状態になりますから、そん感覚は体感した人だけがわかるのです。

 考えるな、感じなさい!とでもいうのでしょうか。

禅に見性(けんしょう)という言葉があります。この見性の意味は、人間の自己に根源的にそなわる本性を見きわめること、とあります。

 修行によって表面的な心のあり方を克服し、自分に本来備わっている仏の真理を見きわめること!このような説明もあります。

 つまり、表面的な自己と、自らの本質である『本来の自己』を見極めることができる『大いなる気づき』のことを見性といいます。
 
 禅のお坊さんであった山田耕雲老子の見性に関する文章を紹介します。

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 哲学を研究してみても、人間が円満完全、無限絶対の実在であると説く教えは仏道以外にはない。

 この事実を思想的に理解するのではなく、体験として見得し、納得することが禅のねらいであり、これを見性といい、悟道というのである。

 人間の一切の不安、苦悩は、人間が本質において完全円満、無限絶対の実在(これを仏と言い、本来成仏と言う)でありながら、現象としては不完全きわまる、有限相対の、はかなき、いと罪深き存在(これを凡夫といい、衆生という)として現れており、しかも人間は、生まれながらにしては、自分の円満完全、無限絶対の本性(仏性)を知ることができない、という事実から発生するのである。

 そこで、自分を不完全な、有限相対の存在と思っている人間が、円満完全、無限絶対の自己の本質に目覚め(これを見性といい、悟りという)、この事実を自ら納得する(これを証という)とき、人間の一切の不安、苦悩はいっぺんに雲散霧消するのである。

 この時の歓喜は全く筆舌につくしがたい。

 人によって深浅、強弱の差はあるが、一度この歓喜を体験した人でなければ、本当の禅の話は通じない。

 どんなに仏教に関する学識が豊かであろうと、どれほど禅録、祖録を読破し、そらんじていようと、この体験がない限り、禅にとっては全くの門外漢である。

        山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社)
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